※ここで紹介する物語の解釈は、あくまで個人的な見解です。こんな考え方もあるのか!という風にお楽しみください。
このシリーズでは、有名なオペラの物語を哲学的に読み解いていきます。第一回はモーツァルト作曲『コジ・ファン・トゥッテ』。恋愛における人の心の揺れ動きを見事に表現した作品です。今回はそもそも恋愛ってなんだろうか?という視点から、古代ギリシャの哲学者プラトンの恋愛論が示された『饗宴』を手掛かりに、このオペラを考えてみたいと思います。
1.『コジ・ファン・トゥッテ』のあらすじ
このオペラには4人の若者が登場します。兵士であるフェルランドとグリエルモと、ドラベッラ、フィオルディリージという美しい許嫁の姉妹たち。そこに表れたのが哲学者ドン・アルフォンソ。彼は女性の貞操はあやしいものだと二人の兵士を挑発し、ある賭けをすることになりました。パートナーを入れ替え、フェルランドはフィオルディリージを、グリエルモはドラベッラを口説き落とすことができたらドン・アルフォンソの勝ちというものです。兵士たちは自分の恋人を信じ切っていたので、この賭けに乗ります。
さて、兵士たちは外国人風に変装し相手に近寄ります。求愛を強く拒絶する姉妹たち。しかし姉妹の付き人であるデスピーナは、少しはその男たちと遊んでみたらとそそのかします。あまりに熱心な求愛に、はじめは拒絶していた姉妹たちも次第に恋の感情が芽生えてしまいました。まずドラベッラとグリエルモが結ばれ、そしてついに熱意に折れたフィオルディリージもフェルランドと結ばれます。新しいカップルがついに結婚!というところでネタバラシ。変装を解いた兵士たちが姿を現します。真実を知った今、新たな信頼を結ぶことができるだろうとドン・アルフォンソが宣言し、もとのカップルは再び愛を誓い合います。
2.哲学者ドン・アルフォンソ
この『コジ・ファン・トゥッテ』、初演(1790年)からしばらくの間は「内容が不道徳である」として非難されていたようです。たしかに私たちにとっても、この結末をすんなり受け入れるにはどこか違和感があります。そのため演出によっては、台本とは反対にもとのカップルの関係が崩れてしまうという解釈がなされることもあります。しかし台本のテキストはあくまでもハッピーエンド。それでは私たちはこの結末をどう解釈すればよいのでしょうか。
手掛かりとなるのが、物語の元凶となった登場人物、哲学者ドン・アルフォンソのセリフです。ドン・アルフォンソは冒頭で、2人の兵士が恋人のことをまるで女神のように讃えている様子にあきれ、女性もまた君たちと同じ人間なのだと教えます。コジ・ファン・トゥッテ、女はみんなこうするものだ……。物語はドン・アルフォンソの思惑通り進み、彼は結末において高らかに宣言します。
こうした人間は幸せ者、/物事すべて、その良い面を取り/どんな運命、どんな出来事に遭おうと/理性により切り抜ける人間は。/他の人間ならふつう泣かされることも/こうした人間には笑いの種、/世の激しい渦のなかにあって/素晴らしい静けさを見出せよう。
強調されているのは、理性によって困難を切り抜ける人間の姿です。例えばもし悲劇だったとしたら、運命に翻弄される人間の姿を描くことでしょう。しかしここには、そうした運命を乗り越えていく人間の理性が讃えられているのです。
考えられることは、この作品の背景には当時の封建的な身分制度が潜んでいるということです(『コジ・ファン・トゥッテ』の台本作家ダ・ポンテによる『フィガロの結婚』、『ドン・ジョバンニ』などの作品にも、同様のモチーフが見て取れます)。そうした状況下では「自由な恋愛」を思い描くことは難しい。それゆえ、身分制度という「運命」に対して、人間は理性によって立ち向かうことで、心の平安を得ることができるとドン・アルフォンソは宣言しているのです。
だからと言って、浮気をしてしまったことには変わりないのですから、あまりにもすんなりまとめられてしまうこの結末には、やはり納得がいきません。
3.プラトンの恋愛論
私たちは「真実の愛」と聞くと、運命的な出会いによって結ばれた恋人と一生を共にする、という様にイメージすることでしょう。その意味では『コジ・ファン・トゥッテ』で描かれる恋愛は、あまり真実の愛とは言えなさそうです。しかし登場人物たちにとっては浮気であっても恋には違いなかったはず。そうであるならば、そもそも恋愛ってなんだろう、人を愛するってなんだろう、ということを考えなければなりません。
恋愛の問題は、古代からずっと考えられてきたことでした。古代ギリシャの哲学者プラトン(BC427-347)は『饗宴』において恋愛論を語っています。この作品は登場する人物たちが恋愛についての議論をするという形式で描かれています。『饗宴』は次のように進んでいきます。
あるとき、一堂に会したギリシャの知識人たちは、それぞれが考える恋愛論を披露していきます。次々と論じられるなか、ある人物が恋愛を神話に見立て、エロス(愛)という神の完全な美しさを讃えます。そこで反論したのが偉大な哲学者ソクラテスでした。ソクラテスは、もし愛が完全ならばどうして他のものを欲するのだろうか、と矛盾を指摘します。そして、かつてディオティマという名の婦人から聴いたという恋愛論を披露しました。
ディオティマによれば、愛が他者を求めるのは、愛自身が美しいものと醜いものの中間の存在だからです。それゆえ愛は自身に欠けている美しいものを欲するという側面を持っています。それでは人間が美の本質、さらにはその背後にある究極的な「善きもの」を求めることで、その人はいったい何を得るのでしょうか。ディオティマによれば、「善きもの」を永久に所有することは、その人が幸福になることなのです。ディオティマは次のように語ります。
実際……、幸福な者が幸福なのは、善きものの所有に因るのです。また幸福になりたい人はいったい何のためにそうなりたいのかとさらに尋ねる必要ももはやありません、むしろ私達の答えはもうこれで終極に到達したように見えます。
幸福になるために、人は美しいもの、「善きもの」を欲する。この「善きもの」への欲求はどのように満たされるのでしょうか。ディオティマによれば「善きもの」は、美しい人、そして美しい魂との間で生み出されるのです。自分のなかに「善きもの」がないからこそ、美しい人、美しい魂との間で「善きもの」を産出する。これが愛なのだというのです。
以上が『饗宴』で描かれる恋愛論です。プラトンは恋愛を「善きもの」を得るための欲求だと考えました。自分のなかに「善きもの」がないからこそ、人間は美しい人に惹かれ、その人の美しい心に恋をするのです。そう考えますと、『コジ・ファン・トゥッテ』で若者たちが経験した出来事も、いままでとは少し違った仕方で見えてきます。
4.「善きもの」を求める若者たち
ドン・アルフォンソの策略により、4人の若者たちはつかのまの「浮気」をしてしまいます。もし以前の許嫁同士の関係が身分制度の閉塞感を伴うものだったのだとしたら、姉妹たちは外国人風の男たちとの関係に、どこか「自由」を感じ、「善きもの」を求めたのかもしれません。そして台本からはわかりませんが、おそらく兵士たちのほうもまた姉妹を口説くなかで、女性たちの美しさのなかに新たな「善きもの」を感じ取ったのかもしれません。そのようにして4人の若者たちは幸福を求めていたのです。
しかし、結末ではドン・アルフォンソの計画が明らかにされ、すべては幻想であったことが判明します。4人の若者たちが感じたつかのまの幸福は、いまや消え去ってしまいました。一度は手に入れたかに見えた「自由」は幻想にすぎなかった。でもあの幻想の内に「善きもの」を求めるとはどういうことなのかということを、4人が理解したのだと私は思います。そして幻想におぼれてしまうのではなくて、また現実へと戻っていくことを若者たちは決断したのだと思うのです。
フェルランドとドラベッラ、グリエルモとフィオルディリージ、もとのカップルに戻った4人は改めて愛を誓い合うことができました。彼らはもともと、すでに結婚相手として決められていた関係だったのかもしれません。しかし、人を愛するとはいったいどういうことなのかを知ったいま、彼らは今度こそ本当に、恋人を愛することができるようになりました。自分の中には「善きもの」はない。そして「善きもの」を大切なこの人との間に求めていく。彼らは愛の本当の姿に気づいたのです。
正しい選択を判断することは、人間にとってあまりに難しいことです。ドン・アルフォンソはその解決を理性に求めました。しかし、恋愛とは理性だけで片付けられるものではないでしょう。フェルランドとドラベッラ、グリエルモとフィオルディリージはこの物語を通して、それぞれの間にある大切なもの、本当の「善きもの」を求める幸福を再発見することができたのかも知れない、そう思うのです。
引用文献:
モーツァルト『コシ・ファン・トゥッテ』小瀬村幸子訳、オペラ対訳ライブラリー(音楽之友社、2002年)
プラトン『饗宴』久保勉訳(岩波書店、1952年)