※ここで紹介する物語の解釈は、あくまで個人的な見解です。こんな考え方もあるのか!という風にお楽しみください。
前回は、モーツァルト作曲『コジ・ファン・トゥッテ』の結末を、プラトンの恋愛論を手掛かりに読み解きました。この『コジ・ファン・トゥッテ』というタイトル、日本語では「女はみんなこうするもの」と訳されます。女はみんなこうするものだ。この言葉は実は、モーツァルトの以前の作品『フィガロの結婚』に、すでにセリフとして登場していました。このテーゼが示す女性のふるまいは、はたして普遍的なものなのでしょうか。今回はイギリスの哲学者デイヴィッド・ヒュームの『人間知性研究』から、経験と普遍性について考えます。
1.いつでも、女はみんなこうするもの?
『フィガロの結婚』は、主人公であるフィガロが、スザンナとの結婚を控えている場面から始まります。二人が仕えているのは、伯爵の領主館。伯爵は、夫人がいる身でありながら、若く美しいスザンナをも自分のものにしたいと画策しています。しかしこの伯爵、もう一方では小姓のケルビーノが伯爵夫人に好意を寄せていることがおもしろくない。怒る伯爵からスザンナのもとへ逃げてきたケルビーノ、スザンナの部屋に隠れるが、そこへ伯爵が、さらにはウワサ好きの音楽教師バジリオまでもがやってくる。ついに見つかってしまったケルビーノは、あろうことかスザンナとの関係まで疑われてしまう。そんな状況に対して、音楽教師バジリオは嫌味っぽく告げます。
美しい婦人はみんなこうするもの(Cosi fan tutte le belle)、少しも珍しいことはない。
バジリオが語ったのは、いわば経験則としての格言でしょう。女というのは、みんなこうするものだ。このテーゼの普遍性を検討してみるというのが本稿の目的です。そこで、次のようなテーゼに言い換えることで一般法則化してみましょう。「女はいつでも〔不誠実に〕ふるまうことが知られている」。格言というのは、日常的な「あるある」の域を出ないものですから、これはいささかラディカルな言い換えです。しかし、こうして一般法則として捉えてみると、これがいついかなる時も正しい時にだけ、このテーゼも普遍的に有効なものであると言うことができるでしょう。ですから、本稿での私たちの問いは、「女はいつでも〔不誠実に〕ふるまうことが知られている」というテーゼが、過去や現在だけでなく、未来においても常に成り立つかどうか、だということになります。
2.一般法則の普遍性とヒュームの経験論
ある法則が、今日だけでなく、未来においても変わらず有効である。このことは、私たちの生活を無意識に支えている根本的な考え方です。例えば、太陽が昇り、沈むというのは、毎日変わることがありません。一定の運動法則によって星が動いていると私たちが考えているのは、まさにそれが今日だけでなく、明日も明後日も変わらずそうであるからなのです。しかし、ヒュームは疑いました。ヒュームによれば、私たちが「法則」だとみなしているものが、明日もまた変わらずそうであるということは決して言えないのです。ヒュームはこう考えました。私たちが認識するものは、すべて私たちの経験から来るものです。私たちはある出来事が起こるということを経験することはできます。けれども明日もまた同じようにその出来事が起こるかどうかは、経験することができません。だから、ある法則が明日以降も変わらず有効であるかどうかは決して分からないというのです。ヒュームは言います。
何らかの自然的対象または出来事が現前するとき、われわれが、いかなる知恵または洞察をもってしても、経験なしには、どのような出来事がそれから結果するかを発見すること、あるいは推測することさえ不可能であり、……ある特定の出来事が別の特定の出来事に続いて起こるのを観察した後でさえも、一般規則を形成したり、あるいは似た事例でどのようなことが起こるかを予告することはできない。
こうしてヒュームは経験できるものだけが真実であるという主張のもと、あらゆる一般法則そのものを退けてしまったのです。
しかしそれでは、私たちの日頃の体験と矛盾してしまいます。世界は明日も変わらず太陽が昇るだろうし、水は100度で沸騰するはずです。コップを床に落とせば割れてしまうでしょう。しかしヒュームの言う通りならば、明日床に向かってコップを手放しても、反対に天上に向かって飛び上がるなどということが、ありえるというのでしょうか。そこで、こうした問いに対してヒュームは答えます。
すなわち、〔多数の事例の場合〕類似した事例が繰り返された後では、心は習慣によって、ある出来事が現れると、それに通常伴う出来事を予期し、そしてそれが存在するようになるだろうと信じるように導かれる、という点である。
確かにヒュームによれば、明日もまた、今日と同じ世界が続く保証はどこにもありません。しかし、それでも私たちが法則(らしきもの)をそこに見出すのは、ある出来事の原因Aの後には、いつも結果Bが続くということを、私たちが「信じている」からなのです。可能性だけで言ったら、原因Aの後には、結果Cや結果Dなどが続くことも充分考えられます。でも、私たちは経験則から、いつも同じ結果が続くということを感じているに過ぎないのです。
3.女はみんなこうするものだろう?
もちろん、ヒュームの主張は極端すぎるということで、後に批判されることになりました。なぜならヒュームの考えでは、そもそも科学という学問がまったく成り立たなくなってしまうからです。そこでイマヌエル・カントという哲学者が登場し、ヒュームの経験論を批判したのですが、この話は長くなってしまうので、また後日にでも。
しかし、なんだか驚くべきことを言われてしまいました。明日、この世界がどうなってしまうかは、実のところまったくわからないのです。ヒュームの経験論の前では、あらゆる法則が究極的には意味のないものとなってしまいます。そこから、先ほどのテーゼ「女はいつでも〔不誠実に〕ふるまうことが知られている」を考えてみましょう。問題はやはり「いつでも」という言葉です。ヒュームによれば、「いつでもそうなる」ということはありえません。私たちがはっきり言えるのは、多くの経験によってそうなるだろうということが予測されるに過ぎないということです。だから最後にこのテーゼをヒューム流に言い換えて、音楽教師バジリオが本当に言いたかったこと(?)を明らかにしましょう。そしてもしモーツァルトが当時、ヒュームの哲学をよく学んでいたら、もしかしたあの名作もこのようなタイトルになっていたかもしれません。
モーツァルト作曲『女は不誠実にふるまうということが充分経験された後では、そのようにふるまうということが今や予想される』
引用文献:
モーツァルト『フィガロの結婚』小瀬村幸子訳、オペラ対訳ライブラリー(音楽之友社、2001年)
デイヴィッド・ヒューム、『人間知性研究』、神野慧一郎・中才敏郎訳、近代社会思想コレクション(京都大学学術出版会、2018年)