※ここで紹介する物語の解釈は、あくまで個人的な見解です。こんな考え方もあるのか!という風にお楽しみください。
さて、私たちは前回、デイヴィッド・ヒュームの経験論から、普遍的な経験について考察しました。そこでは、ある原因から、特定の出来事が結果として起こることは否定されてしまいました。ヒュームによれば、私たちにわかるのは、あくまでも「いつもそのようになるだろう」という予測に過ぎないのです。
しかし、ここでやっかいな問題が起こりました。あらゆる法則がたんなる予測に過ぎないのならば、科学などの学問は成り立たないのではないか? そこでヒュームを批判する人物が現れました。それが、イマヌエル・カントです。今回はもうすこしだけ、この問題について考えてみたいと思います。そして、モーツァルト作曲『ドン・ジョヴァンニ』の一場面から、カント的な思想を検討します。
1.私たちが見ているものは存在しない?!
カントの哲学の業績は、主に「認識論」と呼ばれる分野を発展させたことです。彼の認識論を簡単にまとめるとこうなります。私たちは、生きている間にさまざまな出来事を経験します。そして、私たちは経験を通して、ある事物を「認識」します。たとえば、私たちがリンゴという事物を見たとします。そのリンゴは丸い形をしていて、赤い色をしているでしょう。これが認識です。でも、カントは言います。「リンゴそのもの」がいったいどんな形をして、どんな色をしているのかは、実際にはわからない。なぜならばカントによれば、私たちはリンゴを、「私たちが見ている限りでのリンゴ」としてしか認識できないからです。私たちは「私たち」というフィルターを通してしか、世界を見ることができないというのです。
この考えは、科学の法則についても応用されました。ヒュームにおいて問題となったのは、原因と結果という法則がかならずしも確かとは言えないということでした。そこでカントは、ヒュームを批判しました。カントによれば、原因と結果という法則は、「出来事」の側にあるのではなく、その一連の出来事を見ている「私たち」の側にあるというのです。ある出来事を、「私たち」が観察する限り、私たちのなかにある「原因と結果を見出すフィルター」を通して見ることになる。こうして、ある法則の普遍性は、人間が認識する限り確保されるとカントは考えました。カントは言います。
私たちが事物についてア・プリオリ〔先験的〕に認識するものは、じぶん自身が事物のうちに置きいれたものだけである
かんたんに言い換えれば、私たちが見ているものが、そのまま「ほんとうに」存在しているのかは、誰にもわからないということです。しかしそれでは困ってしまいます。見たものが存在しているというのは、考えるまでもなく当たり前のことです。でもそんな「常識」は、カントによって退けられてしまいました。私たちがまた「常識」に戻って来るためには、少し遠回りをする必要がありそうです。
2.「カタログの歌」の女性たち
カントは、「私たちの認識」と「存在そのもの」をわけました。彼の思想は後におおきな影響をもたらすことになります。カントの登場以降、哲学の歴史は長い間、「認識」と「存在」をわける仕方でなされるようになったのです。カント的な哲学はさらに発展し、認識することができない「存在」は考える必要がない、と言うひとも現れました。こうして、哲学の問題は「人間がどのように認識し、どのように感じるか」を中心とするものとなっていきました。そこで私たちはカント自身からさらに進んで、この極端な仕方でのカント主義がもたらす結果を考察したいと思います。
注目したいのは、モーツァルト作曲『ドン・ジョヴァンニ』から、有名なアリア「カタログの歌」です。こんな場面です。放蕩の限りを尽くすドン・ジョヴァンニとその付き人レポレッロ。ドン・ジョヴァンニに裏切られた婦人ドンナ・エルヴィーラは、ひどく落ち込んでいます。そこでレポレッロは、主人の素性を明かし、ドン・ジョヴァンニが口説き落としてきた女性をつぎつぎと紹介していきます。そのカタログにはなんと、国々をまわりながらの恋愛遍歴がずらりと記されていたのです。こんな感じです。
イタリアでは600と40人、ドイツでは200と31人、フランスでは100人、トルコでは91人、で、スぺインではすでに1000と3人。その中にゃおります、村娘が、召使が、そして町娘が、おります、伯爵夫人、男爵夫人、侯爵夫人、公爵夫人が、女がおります、あらゆる身分の、あらゆる容姿、あらゆる年齢の。
ちょっと信じられない数です。レポレッロはこの驚くべき遍歴を雄弁に語っていきます。これらは、すべて事実である!
もちろんカタログに載っているということは、レポレッロやドン・ジョヴァンニは実際に彼女たちを知っているはずです。しかし待ってください。ほんとうにこの女性たちは存在しているのでしょうか。と言うのも、ドンナ・エルヴィーラは、女性たちの存在を確かめることはできないからです。直接、飛行機で飛び回って、確かめに走ることなど彼女にはできません。彼女は、証言をもとに、女性たちの存在をただ信じるしかありません。
例のごとく、ちょっと大胆に考えてみましょう。問題は言い換えれば次のようになります。つまり、ドンナ・エルヴィーラは、直接見ることができないが、いま確かに外国にいるだろう女性たちが、ほんとうに「存在」していると言うことができるだろうか? なぜなら、極端なカント主義によれば、「認識」できるもの以外の存在を考えることはできないからです。そうすると、ドンナ・エルヴィーラにとっては、直接確認することができない女性たちの存在は、「なくてもいいもの」となってしまうのです。
3.存在すること、認識すること
私たちに置き換えて考えてみましょう。たとえば、ふるさとの実家に住んでいる家族や、遠くはなれた友人たちが、「いま、ほんとうに」存在しているのか、私たちは知ることができるでしょうか? 究極的には、これは確かめようがありません。もし電話で話すことができても、私たちをつないでいるのは、電気的な信号に過ぎません。また、音声もほんの小さな時間的ずれが生じているはずですから、「いま」を共有することはできません。さらに極端な話、目の前にいたり、たとえ触れていたりしていても、それは私たちの「認識」に過ぎないと言えてしまいます。
結局、この事態は私たちの感覚とおおきく異なっていると言わざるをえません。後にカント主義は、ロイ・バスカーという科学哲学者によって批判されました。バスカーは、この事態を「認識論的誤謬」と呼びました。カント主義は間違っている。どういうことでしょうか。カントは、人間の「認識」から「存在」の姿を考えようとしました。でも、人間の「認識」は、そもそも「存在」がなければ起こらないはずです。だから、「存在」が「認識」を規定するのであって、その逆は誤りであるとバスカーは考えました。
ずいぶん遠回りをしてきました。哲学の歴史は批判の積み重ねです。以前の思想を批判する、そうして新しい思想は生まれてきます。やっと私たちは、堂々と、「私たちが見たもの、聞いたものは、実際に存在する」と言うことができそうです。どうしてドンナ・エルヴィーラはカタログの歌を聴くことができたのでしょうか。それは、女性たちが実際に存在したからです。そして彼女たちの姿をレポレッロが認識し、カタログを通してドンナ・エルヴィーラに伝えたのです。私たちが認識したものは、実際に存在する。あたりまえのことをあたりまえに語るのは、もしかしたら、意外と難しいことなのかもしれませんね。
引用文献:
モーツァルト、『ドン・ジョヴァンニ』、小瀬村幸子訳、オペラ対訳ライブラリー(音楽之友社、2003年)。
イマヌエル・カント、『純粋理性批判』、熊野純彦訳(作品社、2012年)。
ロイ・バスカー、『科学と実在論――超越論的実在論と経験主義批判』、式部信訳(法政大学出版局、2009年)。